先日、赤坂の近くまで行ったとき、乃木坂にある「旧乃木邸」を覗いてきておりました。
東京メトロ千代田線 乃木坂駅のすぐ側に「乃木公園」として残されています。
乃木大将の遺言により、土地建物が東京市に寄贈されたのちに、隣接した100坪を購入し、現在のように公園として整備されたのだとか。
乃木邸の周囲には、見学するためのテラスが作られていて、内部を覗くことができます。
見る、というよりも、覗く、という感覚。内部は、あまりはっきり見れません。
室内の公開は、乃木大将の命日の9月13日と前日の12日のみに、公開されているのだとか。
わざわざ見に行かれる方は、その日を狙って行くのが良さそうです。
邸宅の横には、煉瓦作りの厩があります。
木造の邸宅と比べて、ずいぶん立派な造りです。
乃木希典というと、司馬遼太郎によって酷評された、無能な愚将というイメージが強くあります。
203高地を無策で突撃させて、多くの兵士を死なせてしまい、児玉源太郎参謀長が指揮を代行することになった。という話。
児玉が指揮を執らなかったなら、損害は拡大していたと言われていると実しやかに語られているけれど、そこまで無能と言われる人間の邸宅が、現在まで大事に扱われているのが、少し不思議にも感じます。
それだけではなくて、乃木希典を敬愛する人たちは、乃木坂という地名まで作り、乃木邸宅の隣には乃木神社まで作ってしまったわけで、ここまでされてしまえば、乃木希典は今でも生きているようなものだ。
軍人としては無能だったけれど人徳は高かった。とされているけれど、人徳だけでここまでされるものなのか? と疑問に思って検索してみたら、やはり賛否両論あるらしく、司馬説に反論するサイトが、いくつか見つかった。
その中から、ひとつを引用します。
戦後、乃木将軍は、「人徳は素晴らしいが軍事的手腕は無能であった」といった評価があるが、それはすべてまちがいであり、後知恵である。
強襲法と正攻法
旅順攻防戦では、無謀な正面攻撃を繰り返し多くの犠牲者を出したというイメージが植え付けられているが、当時の世界では砲撃によって、相手の防塁の火力を叩いて、攻める強襲法が常識的な戦法であった。乃木以下第三軍も、この強襲法を行った。
二日間に及ぶ、空前絶後の砲撃を加えて突撃を開始している。しかし、コンクリートで固められた強固な防塁を破壊することができなかったのである。
しかも、弾薬が明らかに不足していた。その後投入された二十八センチ榴弾砲によっても十分に破壊できず、多くの犠牲者を出している。
しかし、第三軍は、一回目の攻撃の失敗により正攻法を併用している。
塹壕を掘り進め相手の防塁に近づき、そこからトンネルを堀り、地下からの爆撃により要塞を陥落させたのである。
また、二〇三高地を最初から攻略しておけば良かったという指摘も間違いである。
これは、海軍の要請であり、要塞そのもののを攻略するには遠回りでしかない。
しかし、ここでも柔軟に海軍の要望に応え、二〇三高地を落とし、懸案の旅順艦隊を潰滅させている。
難攻不落の旅順要塞を攻略するには、長い時間と多くの将兵の犠牲なくしては為しえなかったのである。
乃木の鉄心と第三軍将兵の国を守ると言う不屈の闘志により為しえたのである。
乃木の人徳があったからこそ多くの将兵は、命を預け、突撃していったのである。
http://itomaj.web.fc2.com/nogijinjya.htm
真実が、ほんとうにこの通りなのか分からないけれど、乃木坂となり乃木神社となって生き続けている事実を見たら、反論説にも説得力がありますね。
また、203高地攻略に関して、「坂の上の雲」で書かれていた、児玉源太郎に指揮を代行した話が史実のように広まっているけれど、これもまた裏付けのある一次資料がないらしく、司馬遼太郎のフィクションではないかと言われているのだとか。